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勝浦精神(和訳)

スピリット・オブ・カツウラ

「覚えておくがよい。全ての人間はあなた自身の分身(Variation)であると」  〜サローヤン

1 はじめに

職業生活の中で,弁護士であることに大いに誇りを持っていい時がある。IPBAの創設は,まさにそのような瞬間だった。

IPBA(Inter-Pacific Bar Association)は,1991年4月に東京で設立された。麗らかな春の日だった。当時,湾岸戦争の余波で旅の安全が危ぶまれていたが,旧友やこれから友になる者たちが集まり,アジアが主導し,アジアが主体となる弁護士団体の誕生に立ち会った。

2 運営委員会

後にIPBAと呼ばれる団体の創設に関する最初の懇談は,1990年の春に,日本の千葉の美しい田園地域で行われた。1990年3月24日から25日にかけて行われたこの会合では,

友情(friendship),
絆(fellowship),
率直な意見交換(candid discussions),
お互いの見解に対する心遣い(sensitivity to each other’s ideas),そして
表現の機会(opportunities for expression)

が強調された――これらの特徴は,その後のIPBAの会合においてもトレードマークであり続けた。

1990年3月下旬の週末,千葉県勝浦の太平洋を見渡す三宅能生(のぶお)弁護士の別荘地に,9人の弁護士が集まった。この9名は,カナダのDouglas Lash氏,オーストラリアのRichard Marshall氏, 日本の三宅“ノウセイ”能生氏,Koji Saito氏,アメリカのRoger Rosendahl氏,Robert E. Young氏,フランスのJose Rosell氏,台湾のSui-Yu Wu氏,そしてMark T. Shklov(本記事の著者)である。彼らは,自腹を切って本会合に集まり,急な要請で宿泊場所が確保できなかったため,一部屋を3~4人でシェアした。

太平洋を見下ろすこの別荘での同士の集まりが,IPBA運営委員会の嚆矢であり,IPBAはその約1年後に正式に創設された。この会合の数日間,弁護士にありがちなライバル意識や競争意識は忘れ去られた。9名の弁護士は,朝から晩まで,語り合い,徹底的に議論し,そして夢と希望を共有した。彼らは,リスクや冒険心を持ちつつ,壮大な理念を抱き,そして有意義な使命感に燃えていた。長い議論でへとへとになったが,これは運営委員会の特徴といえるだろうし,また後にIPBAの理事会の特徴にもなった。常に効率的とはいえないが,このような議論は,IPBAの根幹精神にとって重要である。これによって相手を理解し,受け入れることができ,そして究極的には友好につながるのだから。

3 IPBA創設の契機

勝浦へ,そして最終的には東京へと導く道は,勝浦会議の2年前にタイのバンコクで始まり,アジア太平洋地域の首都を転々としながら進んでいた。IPBA運営委員会の核となる,多くの国の多様な経歴を持つ弁護士が,APLA(Asia-Pacific Lawyers Association)との根本的な問題を話し合う機会を何度も提案しつつも,APLAにより拒絶され,無視されていたからだ。

APLA内で行われていた議論は,APLAをより民主的で非政治的なものにする試みであり,これは,1987年と1988年にそれぞれバンコクとホノルルで行われたAPLA会議から始まった。

原点が忘れ去られ,または無視された時に,団体の危機が訪れる。1987年のバンコクAPLA会議前に,APLAは,APLAの創立メンバーである台湾の参加資格を奪う決断を下した。この決断により,1987年に台湾でAPLA会議を行うという決断が覆されて開催地がバンコクに変更され,APLAの理事会から台湾が排除され,台湾は参加国として扱われなくなった。香港にも同様の運命が待ち受けているようだった。これらの出来事は,APLAの創立理念である民主的な理想を無力化するものだった。

ある人間が,個人的な見解を団体の理念として掲げてしまう時に,その団体は危機に陥る。私が議長を務めた1989年のAPLAホノルル会議で,APLAのある人物が影響力を行使して,APLA委員会による決定を覆し,フィリピン人がAPLAの代表に指名されたことを取り消した。また,ほぼ同時期に,APLAの民主的な基本理念に反して,APLAの規定にないにもかかわらず,APLAの代表が「永世代表」と呼称されることになった。

これらの議論は,APLAの核となる民主的な理念を揺るがすものだった。APLAの創立理念を取り戻して共通の土俵に立つため,数人のAPLA役員がアジア太平洋地域のAPLAメンバーを通じた根回しに奔走したが,結局,APLA幹部にこの問題を議論することは受け入れられなかった。

1990年2月16日,APLAの副会長,理事及び委員長の数名が,APLAの会長に対して共同で辞表を提出した。その辞表には,「我々は,貴職の地位や行動が,法の支配を推進するという目的を始めとするAPLAの基本精神に合致しないと申し上げざるを得ない。それゆえ,上記の理由及びホノルルの第3回大会以降この数か月にわたり申し上げてきた他の理由に基づき,我々は,熟慮の結果,APLAメンバーになることに価値はないと判断した。」と書かれていた。

1990年の4月30日,この辞表とIPBA運営委員会の創設を受け,APLA会長は,APLA会員に対し,「旧APLA副会長であるロジャー・ロゼンダル氏に率いられたAPLAの旧役員たち(ロゼンダル・グループ)による現在の動き」に対して不満を述べた。そしてAPLA会長は,ロゼンダル氏に対する資格剥奪手続の開始を求めてカリフォルニア弁護士会に不服申立てをし,また,APLAに類似する呼称の使用と,APLAに類似する新団体の創設を禁じ,名誉棄損を理由とする損害賠償を求める民事訴訟の提起をすることをほのめかした。

ロジャー・ロゼンダル氏がIPBA運営委員会のリーダーの1人であることは間違いなかったが,新しい広域的弁護士団体の創設に向かう動きは,彼一人の力より遥かに大きかった。APLAによる攻撃の個人的な色彩を弱め,ロゼンダル氏が仲間に伝えたように「新しい団体を創設する現在の動きに対して合意が形成されつつあることを第三者に対して明確に示すため」,ロゼンダル氏は1990年5月8日にIPBA運営委員会を脱退した。

IPBA運営委員会の他のメンバーに宛てた辞意を示す手紙において,ロゼンダル氏は,新弁護士団体の底流となる共通テーマに触れ,「絆と継続,そして民主的な雰囲気におけるチームプレイを絶えず強調すれば,アジア太平洋地域の弁護士による立派な団体が生まれることを確信している。」と述べた。

IPBA運営委員会の他のメンバーは皆ロゼンダル氏に翻意を求めたが,今振り返ってみると,ロゼンダル氏の判断はおそらくこの創設中の団体にとって最良の選択であった。ロゼンダル氏は事実無根の中傷や提訴の危機にさらされたが,彼が辞任してくれたお陰でIPBA創設委員会は紛糾を免れ,計画を前向きに進めることができた。最終的には,ロゼンダル氏はIPBAの運営委員会に復帰し,東京のIPBA創立大会に出席して,アメリカの最初の代表理事に就任した。

このような背景の下,APLAに不満を抱く多くのメンバーがAPLAを中から改革しようとし,この改革が失敗したことにより,民主的で,理念を守り,政治的な理由に基づき他人を排除することなく,意見交換の場所を提供し,政治や権力闘争とは一線を画す新しい団体を創設することにつながった。

これらの出来事,関係者と関係法域,そして後にIPBAに組み込まれた理念は,IPBAの指針と紐帯の基盤となったものなので,ぜひ覚えておいてほしい。これらの歴史がIPBAの記憶に残り続けるのならば,IPBAがなぜ,どのようにして,いかなる目的のために創られたのかを反芻することができ,IPBAの将来への指針にもなるだろう。

4 IPBAの発展

1990年3月の勝浦会議後,この会議に出席した弁護士たちは,IPBA運営委員会に興味を示すアジア太平洋地域の弁護士に声を掛けた。第2回のIPBA運営委員会が1990年5月に東京で開かれ,1991年1月にはホノルルで第3回会議が開かれた。その間にも,東京,ロサンゼルス,バンコクその他のアジア太平洋地域で非公式な会合が開かれた。IPBA運営委員会の参加者は,第1回の勝浦会議では5つの法域から来た9名に過ぎなかったのが,第2回では8つの法域から来た17名,そして第3回では11の法域から来た23人に増えた。

各地で開催される運営委員会では,議長は積極的に活動した。本稿の著者は運営委員会の事務局を務め,各会合後に議事録を送付した。新しい弁護士団体の創設においてリーダーシップを発揮しようとする多くの者が,この初期の運営委員会に参加した。彼らは,濱田邦夫,Carl Anduri, C.T. Lee, Ian Awford, Chris Lau, Tae Hee Lee, M.S. Lin, Gordon Jaynes, Paul Tsai, Dr. Mana Pitayaporn, Rivers Black, Nigel Li, David Liou, そしてDavid Sandborgである。IPBAで積極的に活動し続けるその他の者も,これらの手続に関わった。
資金的支援も得られた。運営委員会は,最初はメンバーの自己負担で運営した。1990年5月12日までに,まだ存在しない組織の費用として運営委員会の口座に1万USドルが払い込まれた。1991年の1月までに,個人からの拠出で2万2000USドルが集まった。
同時に,米国法曹協会(ABA)と国際法曹協会(IBA)からの精神的支援も得られた。その後,日本,フィリピン,台湾,タイ,インドネシアの弁護士会が交流を申し出た。ただ,独立性を保つため,IPBA運営委員会は他の団体に資金援助を求めないことを決定した。
個人的な献金に加え,IPBAの創立理念と独立性を十分に理解した上で,ABA国際法部会委員長(当時)Gerold Libby氏の尽力の結果,付帯条件のない1万USドルをIPBA創立費用として借り受け,これは東京の創立大会後,返済要求前にすぐに返済された。
この新団体を創設するにあたり,運営委員会は,アジア太平洋地域の弁護士から協力と同意を取り付けることが重要だと考えていた。それゆえ,運営委員会の門戸は理念と希望に共鳴する者に開放されていた。運営委員会のメンバーは,積極的に活動・貢献し,各国での影響力と国際組織での経験を生かし,新団体の発展に協力することを求められた。このような運営委員会の働きかけに対して大きな反応があり,1991年1月までに運営委員会の人数は50人を超えた。
運営委員会のメンバーは,献身的な犠牲を厭わなかった。ホノルルで開かれた1991年1月の第3回運営委員会までに,約400名の将来のIPBA会員が約5万USドルの会費を払い,運営委員会に登録した。各国代表の尽力もあり,運営委員会は,正式な会議を一度も開いてもいない団体のために,数百人の弁護士から会費を集めることができたのだ。
運営委員会のメンバーはチーム一丸となって働き,IPBAの必要性と可能性を信じ,各自の生活や仕事を犠牲にしてかなりの時間を費やした。運営委員会の主な目標は,勝浦会議の約1年後に東京で第1回創立大会を開くことだった。それゆえ,運営委員会は,短期間に広範囲の仕事をしなければならなかった。“ノウセイ”三宅氏が運営委員会の連絡担当となり,東京ベイヒルトンでの東京大会を仕切る責任を負っていた。三宅氏は,彼個人の保証で,350人分のホテルの部屋を確保した。他の運営委員会のメンバーも,会員の勧誘・IPBA憲章の草案・東京大会でのスピーカーの確保・運営・広告・東京大会の予算管理・他の国際団体や弁護士会との連携など,様々な役割を担当した。

5 危機管理対策

APLAの内部分裂を教訓として,IPBA運営委員会は,IPBAの組織体制に構造的な防衛策を講じようとした。APLAで起こった問題を繰り返さないため,IPBA運営委員会は,IPBAが,特定の個人,法域,法律事務所や弁護士会に支配されず,弁護士個々人から成る団体であって,全ての法域が代表権を有するようにした。
創立大会の準備に併せて,運営委員会はIPBAの組織運営理念を創り上げた。運営員会において確認された理念をIPBA憲章の中に織り込む担当者として,Richard Marshall氏が選ばれた。彼の献身的な努力は,IPBAの創設に大いに寄与した。運営委員会の意向を受け,彼がIPBAの理念を言語化したのである。
創立東京大会の前のこの期間に,IPBA憲章の大枠が決まった。運営委員会は多くの理念を掲げたが,そのいくつかをここで紹介する。
この新しい弁護士団体は,既存の団体を真似するものではない。まず,民主的であること。全世界的に広がるIBAで欧米が支配権を握っているのとは異なり,IPBAはアジアに基盤を置き,アジアが率いる,地域的なものであること。人権を重視してアメリカ人を排除するLaw Asiaと異なり,IPBAはアジア太平洋地域に関心を持つ全てのビジネス弁護士に門戸を開放する。
運営委員会は,この新団体のリーダーを選ぶ際に,IPBAに対する個人の努力と献身を重視し,IPBAに対する個人的な貢献こそが,IPBAにおける昇進に結び付けられるべきだと考えた。
運営委員会は,教育的企画と社交的イベントを行う年次大会と,新組織を管理する理事会を区別した。統治機構である理事会が,会長の権限を抑制するべきとされた。IPBAの役員は,議案を理事会に諮ることとされた。会長は,IPBAの顔(visible ambassador)に過ぎず,重要な権限を握るべきでないとされた。会長は,任命権と代表権と統括権を持つものの,IPBAを支配するわけではないのである。
運営委員会は,様々な政治的背景を持つ国を代表してもらうことに伴う問題につき議論した。政治的問題を回避することには簡単な解決策があるわけではないが,国家間の政治闘争を行わないことがこの団体の趣旨・目的であり,政治的問題を扱う際はこの明確な理念に立ち返ることに運営委員会は合意した。国家問題がAPLAを駄目にしたことが常に思い起こされた。全ての国,地域,法域から来る会員を歓迎し,他者が参加したことである会員・理事が排除されるということはないという基本理念につき,運営委員会は全員一致で合意した。
このため,「国」ではなく「法域」という概念がIPBA創設者によって採用された。「国」ではなく「法域」で活動する弁護士を視野に入れることで,「国」に関わる問題を避けることができると考えたのである。さらに,「法域」に拡大理事を配置することで,「国」問題は回避できると考えた。各法域が,自由な方法で理事を選出することができるとされ,理事会が拡大理事を選ぶこととされた。
IPBA会員の性質と組織は常に広く包括的であった。運営委員会は,この新しい団体の名称として,より狭い意味の「アジア“Asia”」ではなく,その広範な定義から「太平洋“Pacific”」という言葉を使用すべきと考えた。また,運営委員会は,この新団体が「地域的」なものなのか「ビジネス」団体であるのかについても問題提起した。「地域的」とは「地域を代表する」ものと定義され,「ビジネス」とは「その地域でビジネスをすること」と定義された。新団体はビジネス関連のものであるため,会員はその地域に住む者に限定しないものとされた。
運営委員会は,会員資格についても議論した。非弁護士も会員になれるか,ラテンアメリカや欧州からも正会員/準会員になれるかが問題提起された。運営委員会は,渉外実務を行う弁護士が会員になるべきと考え,大会では共通の問題が取り上げられるべきとされた。「法実務に携わる」ということが弁護士業務に従事することに限るのか,弁護士資格が会員資格として必要なのか,企業の法務部で働く者も会員になれるのか,が問題提起された。
会員問題に関する解決策は,新団体を定義づける,会の目的に関する記述を進歩させることだった。新団体の主目的として,弁護士が集まり,意見交換をし,友人となる場を提供すること,を掲げることが提案された。もう一つの目的として,アジア太平洋地域で渉外実務を行う弁護士が個人的な友情を築けるような排他的でない場所であることに焦点が置かれた。新団体は,渉外実務に関心を持つ弁護士が,一堂に会して職歴を共有する者と関わる機会を与えるものとされた。アジア太平洋地域に住む弁護士とこの地域で活動する弁護士がIPBA会員の対象とされた。
運営委員会は,この地域の弁護士以外の者が新団体に関わることは有益であると考えたが,原則として会員資格は弁護士に限られるべきと考えた。そのため,新団体の活動のほとんどを司る委員会では,弁護士以外の者が会合やプレゼンに関わってよいこととされたが,会員資格自体は弁護士に限定するものとされた。
運営委員会は,法域に基づいて理事を選ぶのではなく,法域にかかわらず功績に応じた理事から構成される理事会にすることが理想であると考えたが,結局,各法域から理事会に代表者を選出することが大事だと結論づけた。それゆえ,理事会への法域からの代表者選出にあたっては,最低限の会員が特定の法域から選出されなければならないことだけが基本理念とされた。法域からの代表者のほかに,実績に応じて拡大理事を選ぶものとされた。理事の3分の1は毎年任期満了とすることで,理事会の構成員の少なくとも3分の1は常に変更するものとされた。 氏名を受けた理事は総会で承認されるものとされた。別の理事候補者が総会で指名されて選任される方法も用意された。
重要な理念が,将来への指針としてIPBA憲章に組み込まれた。運営委員会は,IPBAの創設と発展に特有の目的を記載することが必要であり,この基本目的を強調することが大切であると考えた。そこで,IPBA憲章の2条に,「会員を公正かつ公平に扱い,法の支配を促進する」という目的を追加することが決定された。
最後に,運営委員会の全員一致で, IPBAへの参加条件として,IPBA憲章を遵守することを申込者に要求することにした。

6 東京大会

1991年の4月21日から24日,IPBAは東京ベイヒルトンで創立総会を開催した。この会議の完璧な成功は,運営委員会の想像以上だっただろう。30か国から500人を超える弁護士が出席した。会議のプログラムは上手く構成され,多くの出席者を集めた。IPBA憲章が創立総会で採択され,IPBAが正式に設立された。1991年5月1日までに,IPBA会員は1,250人を超えた。
IPBAが創設されるまで,アジア太平洋地域で活躍する弁護士が相互に意見交換できる民主的な機関はなかった。この空白をIPBAが埋めたのである。当時の国際的な法曹団体においては,欧米の弁護士が支配権を握っており,実際,アジアの弁護士が発言の機会を与えられたり組織運営に参画したりすることは極めて稀だった。IPBAは,アジア太平洋地域の弁護士が発言して活動に参画できる,アジア主導の組織である。
IPBAは,「組織・団体」というよりは「家族」のようになった。年次大会には毎年会員の大多数が参加する。毎年,友情が育まれ,暖められる。会員は,個人的な交流と協力により,信頼を築く。大規模法曹団体にありがちな政治的軋轢は存在しない。委員会活動やIPBAの総会における催物に積極的に参加した会員から主にリーダーが選出される。
IPBAの強さは,IPBAの活動に積極的に参加してくれる個々の会員の献身的努力に基づく。IPBAの会員が増えても,この組織が設立された基礎理念と伝統を覚えておくことは重要である。我々の強さと価値観は,この組織に参加して相互交流して貢献する個々の会員が,全会員の大多数を知っているという環境に淵源を持つ。
濱田邦夫弁護士は,IPBAの初代会長の就任にあたっての活動方針の中で,IPBAの目的を,次のように簡潔に述べられている。
『アジア太平洋地域に関わる弁護士間の親善と相互理解を深める。この地域のバランスのとれた経済発展と法の支配に貢献する。他の国際的な法律家の組織と重複しない,独自の活動をする。弁護士の職務や弁護士会の独立性を擁護するが,政治的問題には関与しない。特定の個人や国の経済力や野心その他の影響力に左右されない民主的な組織を整備し,またその活動の運営を図る。そのため,地域的なバランスを考慮しつつ,できるだけ多くの会員が組織の運営に交替してあたる。また,相当数の会員の参加が見込まれない限り,新しい部会は設置せず,既存の部会も定期的に見直す。組織や会員を肥大させず,健全な財政的基盤の上で,より多くの会員が参加できる活動を企画する。そのため,会員の実務に資すると同時に個人的なくつろぎが得られるような活動をする。』 
IPBAメンバーには多くの共通点がある。IPBA創立の歴史が,我々の歴史である。我々は同じ理念を共有する。我々はスピリット・オブ・カツウラを共に抱いているのだ。
[本稿の執筆にあたり,校正してコメントを寄せてくれた三宅能生弁護士とロバート・ヤング弁護士に感謝する。Mark T. Shklov ハワイ州ホノルル,1997年11月7日]

 

本記事原文は1997年発行のIPBA Journal December issueIPBAジャーナルに掲載されたものです。
当訳文は著者およびIPBAの許諾を得て作成されています。

 


原文(「スピリット・オブ・カツウラ」)は、こちらのIPBAのホームページに記載があります。